高野佐三郎と柳剛流~その2/(柳剛流)
- 2016/10/18(Tue) -
 藤堂家および中川家の江戸屋敷において行われた、柳剛流・押見光蔵の一連の試合について、前回記事の確認と補足をしておく。

 まず4月2日に藤堂邸で行われた北辰一刀流の千葉栄次郎との対戦については、「論外」とあり、双方の手数や勝敗については、なにも記されていない。そして5月1日に中川邸で行われた試合においては、1:15で、千葉の勝利となっている。

 これについて、森田栄先生の労作『日本剣道史 第10号 柳剛流研究 その1』には次のような記述がある。

 しかし異説があって、最初は栄次郎物の見事に脚を打たれ、、押見試合之れで終わりを告げたるに、栄次郎強って再試合を望み、思案工夫師説のごとくにして押見の脚切りを防いだともいいます。

 一方で高野佐三郎の記述では、まず押見と千葉が対戦し、押見が圧勝。それを見ていた桃井が、押見と立ち会って圧勝。その後、千葉が押見との再試合を望んで圧勝という筋書きになっている。

 この点について、上記4月2日の押見対千葉の対戦における「論外」との試合結果が大いに気になるところであるが、この『試合勝負附』以外には、伝聞に基づいた話しか伝わっていないため、真偽は闇の中である。

 いずれにしても、高野が記述しているように押見が桃井に完敗し、さらに千葉にも完敗したというのは、前回の記事で示した1次資料である『試合勝負附』に記された対戦結果を見ても明らかな間違いであり、実際には押見は、千葉には完敗したものの、桃井には僅差での惜敗であったというのが真実である。


 次に、6.の「それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばないとし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった」という話について。

 ここでいう脇坂候とは、試合の行われた年から、播磨龍野藩第9代藩主で龍野藩脇坂家11代である、脇坂安宅であろう。そして、たしかに龍野藩といえば、柳剛流が伝播した西国の藩としてよく知られている。

 では高野が言うように、嘉永2(1849)年の他流試合によって、藩主自らが柳剛流を卑怯と批判し、龍野藩における柳剛流の剣脈が断たれたというのは、はたして事実なのだろうか?

 これは、龍野藩に関連する記録を当たるまでもない。

 『武芸流派大事典』の著者である綿谷雪氏は、同書の柳剛流についての項で次のように記している。

 私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。

 ちなみに綿谷氏の生年は明治36(1903)年であり、「少年時代」というのを仮に12歳とすれば、大正4(1915)年となるわけで、少なくとも明治末期から大正初期にかけてまでは、形態はかなり変質したとはいえ、龍野藩伝柳剛流は彼の地で脈々と受け継がれていたわけだ。

 こうした事実からも、「藩主から卑怯と批判されて剣脈が絶えた」というのは、真っ赤な嘘ということになる。

 しかも、そもそも押見光蔵は藤堂家の家来であり、脇坂家の者ではないのだから、高野の記述は二重に、さらに言えば試合そのものについても、藤堂家および中川家で行われたものを「紀州家」と誤って記述しているのだから、高野は三重において事実とは異なる記述をし、それを後世に伝えているのだ。

 こうした事実無根の風説は、柳剛流を修行する者としては、本当に困った、いやたいへん迷惑な話しである。


 次に、冒頭に示した高野の記述の3.~4.について。

 高野は、

3.相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
4.これは、「お前は打たせろ、俺をお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。

 と記している。

 これらについても間違いというか、柳剛流を批判するための、ある種の印象操作に近いデマゴーグである可能性が高いのではないかと、私はみている。

 それはなぜか? 次回にまとめようと思う。

 (つづく)
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