高野佐三郎と柳剛流~その3/(柳剛流)
- 2016/10/22(Sat) -
 『高野佐三郎 剣道遺稿集』(スキージャーナル社)に記された、「衰微した柳剛流」という記述の誤謬に関して、前回までの記事で、柳剛流剣士・押見光蔵と千葉栄次郎・桃井春蔵との他流試合の結果についての誤り、また「卑怯」という理由で龍野藩において柳剛流が途絶えたというデマについて反証した。

 次に、高野は柳剛流について、

・相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
・これは、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。

 と記しているが、これについても、ある種の意図に基づいた悪質な印象操作ではないかと、私は推測している。

 その根拠だが、例えば江戸時代後期にはすでに、剣術諸流では防具を付け、竹刀を用いての打合い稽古(現在の剣道でいうところの地稽古)は、流派の垣根を超えて広く行われていた。

 一方でそれは、現代の剣道のように竹刀や防具など用具の規格が統一されておらず、戦い方についてもかなり流派色が強いものであったようだ。

 たとえば、突きや胴打ちを用いない神道無念流では、時代がかなり下るまで竹刀稽古でも胴を着けなかったというのは、有名な話である。

 同様に柳剛流では、相手の脚を斬る断脚之術が流派の術技の根幹であるために、竹刀稽古では脛当てを用いていたのもよく知られている。

 さてそこで、高野が言うように柳剛流の剣士は、他流の剣士との竹刀稽古の際に、相手に脛当てを着けさせて自分は着けず、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などと言って試合稽古に臨んだというのは本当なのだろうか?

 まず第一に、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」、などという不公平な試合稽古を、しかも他流試合で行うというのは、そもそも常識的にどうかしている。

 そんな不公平な試合(互角稽古)に応じるというのは、江戸時代だろうと平成の今だろうと、普通に考えてありえないことだ。

 実際に、流派の垣根を超えた共通のルールや共通の防具の規格がなかった江戸時代においても、他流試合では彼我で使う防具の種類を合わせたり、打突部位を申し合わせるなどして、できるだけ公平な状況で試合稽古を行うことが、剣術家としての心得であったということが、天保から文久のころに活躍した神道無念流剣士・武藤七之介の試合剣術テキストである『神道無念流剣術心得書』に、はっきりと記されている。

 また同書には、流派ごとの戦い方の特徴や、対戦する際のコツが書かれており、そこには柳剛流についても記されているというのは、以前、本ブログで紹介した通りである。

 そしてそこには、「柳剛流の剣士は他流の脚を打つが、他流の剣士には自分の脚を打たせない」などということは、一言も書かれていない。

 もし当時の柳剛流の試合ぶりが、高野が言うように、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などという、それこそ卑怯なものであったなら、当然、武藤七之介はそれを記していただろう。

 さらに、柳剛流に伝わる口承や逸話においても、試合において、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などとういう話は、柳剛流の大勢力地であった武州でも、あるいは二代目以降の柳剛流の本拠地である角田においても、一切聞いたことがなく、伝わってもいない。

 以上の点から、高野の記述は何らかの意図のある印象操作としか思えないのである。

 では、なぜそのような印象操作を高野が行ったのだろうか?

 そこには2つの理由があると考えられる。

 これは試合や自由攻防のある武術・武道を稽古したことのある者ならだれでも経験していることだと思うが、地稽古や試合稽古のような相対稽古において、一方が防具を付け、一方が防具を付けないで対峙したとする。

 この場合、防具を付けた側は、相手が無防具だけにになんとなく打ち込みにくい気分になり、一方で防具を付けていない側は安心して十全に相手に打ち込むことができる。

 このため、防具を付けている側よりも、防具を付けていない側の方が、むしろ心理的に有利になるということがある。

 空手道の地稽古や試合稽古などで、上位者が下位者にのみ防具を付けさせることで、むしろ心理的に相手をコントロールして優位に立ち、結果としてボコボコにしてしまうなどということは、割合よくあることだ。

 また、弟子にブラスナックルを握らせた上で自分に殴りかからせ、これを捌くデモンストレーションをしていた自己啓発セミナーの先生がいたが、これなども上記と同様の典型的な心理戦術である。


 さて話を柳剛流に戻す。

 江戸時代から明治にかけて、柳剛流剣士は試合稽古において面・小手・胴に加え、脛も打つことから、防具として脛当ても使っていた。しかし他流では、脛を打つことは一般的ではなかったので、当然ながら防具の脛当ても持っていないわけだ。

 その上で、柳剛流の剣士と他流の剣士が試合稽古をした場合どうなるか?

 当然ながらまずはじめに、脛打ちをありとして試合をするのかを申し合わせるだろう。その上で、脛打ちありの試合となれば、防具として脛当てを着けなければならない。

 この場合、試合をする場所が柳剛流の稽古場であったなら、他流の剣士はだれかの脛当てを借りればよい。しかし、柳剛流の道場でない所での試合となれば、柳剛流の剣士以外は脛当てをもっていないという状況になろう。

 そうなれば当然、柳剛流の剣士が、「では自分の脛当てを貸すから、あんたが着けてくれ。その上で、お互いに脛打ちありで試合をしよう」ということになるだろうことは、容易に想像できるし、おそらくそういうことが他流試合が盛んに行われていたころには、多々あっただろう。

 そうなると、柳剛流剣士の側にはそのような意図がなかったとしても、上記の防具有りの者対防具無しの者との対戦とまったく同じ、「心理的な不均衡」が発生し、結果として申し合わせ(ルール)ではお互いに脛打ちありなのにもかかわらず、脛当てを着けない柳剛流剣士の方が有利になるということが多々あったであろうことも、これまた容易に想像できるのである。

 そして中には、こうした心理戦術を意図的に活用し、試合を有利に進めようとした柳剛流の剣士もいたであろう。

 こうした経験、あるいは伝聞などから、高野は柳剛流の剣士たちが相手にだけ脛当てを着けさせて、あたかも「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などと、卑怯なルールを強要して立合ったなどと、吹聴するに至ったのではないかと私は考えている。


 そしてもう1つ、高野がこうした柳剛流のイメージを毀損するさまざまな印象操作を行ったそもそもの動機は、自らの道場である明信館の勢力拡大のためだったと考えられるのだ。

 埼玉県秩父出身の高野は、明治23(1890)年に秩父に戻り、明信館を設立する。これは戦前の大日本武徳会設立の5年前だ。

 以降、高野は埼玉県浦和をはじめ、埼玉県内各地に明信館の支館を次々と設け、勢力を急激に拡大させていくわけだが、その勢力拡大エリアの多くが、柳剛流の勢力範囲でもあった。

 当時すでに、高野の名声は天下に鳴り響いており、さらにそれに前後しての大日本武徳会設立、その下で統一化された剣道が興隆していく中、武州各地の柳剛流道場が次々と高野の明信館支部に鞍替えしていったという事実は、意外に知られていない。

 なおこうした変遷は、辻淳先生の一連の著作である『郷国剣士伝』に詳しい。

 このように、数多くの柳剛流剣士たちとその稽古場を明信館に鞍替えさせていった高野は、当然ながらできるだけ自身の一刀流、あるいは近代的な武徳会流剣道の優位性をできるだけ喧伝し、一方で鞍替させた門下たちの旧流である柳剛流を非難することに、意識的かあるいは無意識的にかは別としても、それなりに積極的だったであろう。

 今回取り上げた高野の、「衰微した柳剛流」という一文は、このような意図の延長線上で書かれた典型的なものと言えよう。



 近代剣道の大立者となり、「昭和の剣聖」とまで言われた高野佐三郎は、いわば現代における剣術・剣道史の「巨大な権威」である。

 その権威が自ら記し、あるいは述べただろう、柳剛流へデマや誹謗中傷の数々は、高野の死から66年が過ぎた今も、容易には解きがたい呪縛となっている。

 たとえば司馬遼太郎が描くところの、「蕨の百姓剣法で、卑怯な脛打ちを多用する、あか抜けない剣術流儀である柳剛流」といったステレオタイプの誹謗中傷も、その文脈を遡れば高野の印象操作に行きつくというのは、さすがに剣聖と言われた先人に対して無礼だろうか?

 いずれにしても、こうした根深い呪縛をほんのわずかずつでも解いていくことが、8世代を経て流祖・岡田惣右衛門の「業」を受け継ぐことを許された、柳剛流剣士たる己の務めなのかもしれない・・・・・・。

 流祖の190回忌となる祥月命日を2日後に控えた今夜、私はそんなことをしみじみと考えている。


 ~打つ人も打たるる人も打太刀も
                心なとめず無念無心そ~(柳剛流免許 道歌より)



 ■引用・参考文献
  『高野佐三郎 剣道遺稿集』(堂本昭彦/スキージャーナル社)
  『幸手剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『戸田剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『郷国剣士伝 第2号 高野佐野三郎・明信館の謎 川田谷村明信館と桶川、北本での柳剛流』
  (辻淳/剣術流派調査研究会)
  『雑誌并見聞録』(小林雅助)
  「吉田村誌」/『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会編)
  『試合剣術の発展過程に関する研究-「神道無念流剣術心得書」の分析-』(長尾進)
  『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』(南部修哉)
  『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)
  『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(永井義男/朝日新聞出版)

 (了)
 
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