「柳剛流」という道をゆく/(柳剛流)
- 2017/04/04(Tue) -
 先々週、翠月庵に見学に来たSさんが、先の週末の稽古から正式に入門することとなった。

 これで私を含め、当庵で5人目の柳剛流剣士の誕生である。

 杖の高段者であるとともに、刀、薙刀、さらに複数の格闘技の有段者でもあるSさんには、剣術、居合、突杖、長刀を有する総合武術である柳剛流は、非常になじみやすいのではないかと思う。



 まずは備之伝から、剣術の「右剣」と「左剣」の稽古を始めてもらう。

 切紙の段階で最初に学ぶ「右剣」と「左剣」は、すでに何度も指摘しているように、柳剛流のあらゆるエッセンスが凝縮された初学の門であり、極意でもある。

 この2つの形を、己の体にしっかりとなじませていくことで、柳剛流ならではの運足、体捌き、拍子、太刀筋、そして戦術と戦略を学ぶのである。

 この2つの形の鍛錬無くして、目録で学ぶ当流極意柳剛刀も、免許秘伝の長刀も、「術」とはなりえない。



 倦まず弛まずじっくりと、流祖・岡田惣右衛門が200年以上も前に編み出したこの「術」を学び、生涯武道として業と心身を磨きながら、末永く後世に伝えるためにも力を尽くしてもらえれば、柳剛流を愛する者のひとりとして、とてもうれしく思う。


  敵は剣身をば柳江修行して
              心せかづに勝を取るべし(柳剛流道歌)


 (了)
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柳剛流の一人稽古/(柳剛流)
- 2017/03/28(Tue) -
 言うまでもないことだが、柳剛流に限らず日本剣術の稽古は、仕太刀と打太刀による相対での形稽古が学びの根本になる。

 しかし、日々の稽古においては、必ず稽古相手がいるとは限らない。ことに毎日の自主稽古では、どうしても一人稽古の頻度が高くなる。

 それでは柳剛流の一人稽古は、どのように行うべきか?

 まず、一人稽古の根本となるのが居合である。

 柳剛流居合は、他流の居合同様、座位という困難な姿勢から運刀を学ぶためのものであるが、加えて柳剛流特有の体捌きによって、強靭な下半身の力と腰のキレを体得することに眼目がある。

 直心影流(直心柳影流)薙刀の達人・園部秀雄は、その著書『学校薙刀』(昭和11年刊)において、柳剛流の業を「跳斬の妙術」と評しているが、この「跳斬」のための地力を錬るのが柳剛流居合なのだ。

 「向一文字」「右行」「左行」「後詰」「切上」という、シンプルな5本の居合をとことん錬ることで、柳剛流の真面目である「跳斬の妙術」を得られるのである。

 これらの居合で錬った地力は、たとえば剣術の基本となる「右剣」と「左剣」、あるいは当流極意と呼ばれる柳剛刀6本の形においても、十全に発揮される。

 逆説的に言えば、居合稽古による強靭な下半身の力と腰のキレなしには、柳剛流剣術の様々な業=術を、十分に使いこなすことはできないのである。



 柳剛流の一人稽古において、居合と並んで重要なのは「備之伝」と「備十五ヶ条フセギ秘伝」だ。

 「備之伝」は、当流において初学者が学ぶ15種類の構えの教えであり、「備十五ヶ条フセギ秘伝」は目録者が学ぶ15種の構えに対応する必勝の構えの教えだ。

 一人稽古においては、まず「備之伝」において正しい構えの姿勢やそれぞれの構えの意味、その構えからのあるべき太刀筋を知る。

 次いで「備十五ヶ条フセギ秘伝」を学んだ者は、それぞれのフセギ秘伝について、彼我の関係と接点、そしてそこからのあるべき太刀筋を学ぶのである。

 さらにこの段階では、それぞれの構えを通して、いわゆる「気押し」「気組み」を十分に錬ることも重要だ。

1703_本部所蔵切紙
▲今井右膳の子・亀太郎の門人であった松嵜直義が山田健三郎に明治23(1890)年に伝授した柳剛流切紙(水月塾本部所蔵)。この伝書では備之伝が10種に簡略化されているが、角田伝や武州伝の各派では多くの場合、備之伝は15種が基本となる


 このように、柳剛流の一人稽古は、切紙の段階では居合と備之伝、目録以上の者はこれらに備十五ヶ条フセギ秘伝を加えた3つがが基本となる。

 その上で、剣術や突杖、長刀の各形について、単独での形の復習を繰り返すことだ。

 さらに補助鍛錬として、いくつかの当流独自の素振りを加えるとよいだろう。


 武芸の学びにおいては、単独稽古と相対稽古は車の両輪だ。

 どちらかに偏ることなく、それぞれが有益に関連しあうよう稽古をしていくことが重要であろう。

 (了)
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なぜ、いま岡田十内なのか?/(柳剛流)
- 2017/03/26(Sun) -
 どういうわけか、今年2月の戸田市立図書館のレファレンスだよりは、現在の戸田市出身である、我が柳剛流の代表的剣客・岡田十内の特集だ。


「岡田十内について調べるには」(戸田市立図書館レファレンスだより2月号)
https://library.toda.saitama.jp/pdf/sankou/refedayori/2017/02_okadajyuunai.pdf


 ま、柳剛流に関する情報が広く発信されるのは、流儀を伝承する者として喜ばしいかぎりであるが、それにしても、なんでまたいま、岡田十内なのか?

 謎は深まるばかりである(笑)。

 なお、ええかげん「りゅうごうりゅう」というルビをふるのは、やめてもらいたいものだ。

 正しくは「りゅうこうりゅう」である!!!

 (了)
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仙台藩角田伝柳剛流の技術体系の変遷について~予告編/(柳剛流)
- 2017/03/22(Wed) -
 柳剛流研究の史料として、まだ未見であった、『浅野弥惣太の記 : 柳剛流の剣士』(松岡泰二著/文芸角田(15).1981/5.角田氏文化協会)と、『柳剛流二代岡田左馬之輔の秘話』(松岡泰二著/文芸角田(32).1988/11.角田氏文化協会)という2点の文書を入手した。

 これらの内容については改めてふれようかと思うが、上記2点の史料を読み、その記述の事実関係や年月日などを確認するために、改めて仙台藩角田伝系の柳剛流の伝書類を精読する中で、その技術体系の流れと変革を改めて見直すことができた。



 大雑把に言えば、仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖の直弟子であり2代を継承した岡田(一條)左馬輔の伝えた技法群が根本としてあるわけだが、実際に今現在、我々が伝承し稽古をしている角田伝柳剛流はそれとはかなり異なる部分があり、おそらく角田伝4代の泉冨次師範が江戸で岡田十内に学んだことから、岡田十内系の柳剛流の影響を強く受けていると考えられる。

 これは、岡田左馬輔直筆である複数の伝書に記されている切紙・目録・免許の内容と、明治~大正期に記された角田伝の伝書類、そして現在、我々が伝承している角田伝柳剛流の内容を突き合せた結果による、私なりの現時点での推論である。

 これについては、もう少し、史料を精査し検討を加えた上で、改めて考察をまとめたいと考えている。

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▲天保9(1838)年、岡田左馬輔が角田における一番弟子で、石川家の柳剛流師範となった戸田泰助に出した直筆の目録。『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)より

 (了)
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フランク安田と柳剛流/(柳剛流)
- 2017/03/17(Fri) -
 27年前、私は学校を卒業してから3年間勤務していた警備会社を退職し、生まれて初めての辺境への旅へ出かけた。

 行き先は、アラスカ・ユーコン河である。

 たった3カ月間の気ままなヴァガボンドであったが、川辺に集落が点在するだけで、あとは半径数百キロの範囲内に人間が1人もいない無人地帯(ノーマンズ・ランド)の原野を放浪した日々は、今となっては忘れがたい青春の思い出だ。



 そもそも、なぜ地の果てのような極北のユーコン河を目指したのかといえば、当時心酔していたカヌーイスト野田知佑氏の影響と、フランク安田への憧れからであった。

 フランク安田(1868~1958)は、新田次郎の伝記小説『アラスカ物語』の主人公として知られる日系アメリカ人一世である。

 20歳でアメリカに渡ったフランク安田は、縁あってアラスカのバロー村にたどり着き、ここでイヌイットの一員として認められ家族を持つ。

 しかしある年、村で麻疹が大流行し病死者が続出。さらに鯨の不良が重なり、バロー村の住民たちは飢餓にさらされる。そこでフランク安田は、イヌイットたちの新たな安住の地を探すべく旅に出発。

 2年間に及ぶ過酷な原野での旅の末、ようやく村人が移住できる土地を見つけたフランク安田は、さらに3年の歳月をかけて200名余りの村人の移住を成功させる。

 アラスカの広大な原野において、これだけ大規模な移住を成功させたフランク安田の偉業は「奇跡」と称えられ、彼は「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」と呼ばれ、イヌイットたちの英雄となった。





 ところで、これはほとんど知られていないことだが、フランク安田は、仙台藩角田伝柳剛流と浅からぬ縁のある人物でもある。

 フランク安田の本名は、安田恭輔。宮城県石巻市の出身である。

 安田家は、代々医師の家系であり、父の安田静娯は医師で初代湊小学校校長、祖父の友琳は長崎蘭方医・漢学者であり武芸にも秀でた才人であった。

 この石巻の安田家近くにあったのが、柳剛流2代宗家・岡田(一條)左馬輔の指導する多福院門前の柳剛流岡田道場である。

 江戸での修行を終え、故郷の角田に柳剛流を伝えた左馬輔は、故あって後半生を石巻で過ごしている。このため石巻でも柳剛流は多いに興隆した。

 左馬輔の晩年頃、恭輔の祖父・安田友琳は40代前半、父・静娯は20代で、岡田家と安田家は、家族ぐるみでの親しい交際があったという。また、左馬輔の石巻における門下第一の逸材と言われた岡崎兵右衛門陳秀は、安田静娯と共に酒を酌み交わし詩を吟ずる盟友であった。

 こうした環境の中、幼少の安田恭輔は、武芸に通じた祖父の友琳から剣術の指南を受けていたといわれる。

 その剣術が何流であったのか明記された史料は確認できないのだが、上記のような岡田家と安田家の関係を見れば、それが岡田左馬輔直伝の仙台藩角田伝柳剛流であったろうことは、容易に想像できるだろう。

 さて不幸なことに、安田恭輔は16の年に両親を失う。

 3年後、19歳になった恭輔は、当時米国から帰国して横浜にいた岡田左馬輔の孫である左一郎(小輔)を頼る。

 岡田左一郎は、大柄だった祖父・左馬輔に対し、小柄であったことから「小さい左馬輔」と周囲から呼ばれ、このため「小輔」の名もあったという。

 戊辰の役では、仙台藩一門筆頭・角田石川家第14代当主・石川邦光に従い白河口の戦闘に参加、官軍と剣を交えた実戦経験を持つ柳剛流剣士である。

 左一郎は、自らを頼ってきた安田恭輔を快く受け入れ、アメリカ航路の見習い船員の職を斡旋する。

 しかもこの時、左一郎は18歳であった娘の秀を恭輔の許嫁とし、養子縁組をした上で渡航費などを負担し、恭輔をアメリカに送り出した。

 つまり安田恭輔、後のフランク安田は、渡米する前に、柳剛流宗家・岡田左馬輔の家系を受け継ぐ「岡田恭輔」となっていたのだ。

 ここまでくればほば間違いなく、若き日のフランク安田は、祖父やあるいは養父・岡田左一郎から、なんらかの形で柳剛流の剣を学んだであろうと考えるのが自然であろう。

 そして恭輔がその後無事帰国し、岡田秀と結ばれていれば、彼らの人生は静かで幸福なものとなっただろう。

 しかし「岡田恭輔」は、その後、二度と祖国に帰ることはなかった。

 アラスカの原野で波乱万丈の人生を送った末、「ジャパニーズモーゼ」フランク安田となった恭輔は、昭和33(1958)年1月、自らが開拓したアラスカ・ビーバー村で90年に及ぶ波乱の生涯を終える。

 許嫁であった岡田秀は、恭輔の渡米後、十数年間、彼の帰国を待ち焦がれていたというが、異国に旅立った恭輔からの音信はなく、後に角田出身の教師高橋敬治と結婚。昭和10(1935)年に63歳で亡くなったという。


 岡田秀とフランク安田との悲しい恋の結末は、千葉佐那と坂本龍馬との悲恋を彷彿とさせる、儚く切ないエピソードでもある。

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 ■参考文献
 『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄/日本剣道史編纂所)

 (了)
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