心の居着きを断つ/(武術・武道)
- 2017/03/06(Mon) -
 日曜は終日原稿書きで、今日は朝から都内で取材がある。

 そこで晩酌をしてさっさと寝ようと思ったのだが、夕方から呑んでウトウトしたものの、23時過ぎに酔いが醒めて目覚めてしまい、なんだかいまひとつ気分がさっぱりしない。

 そこで小半刻ほど、真剣で荒木流抜剣を抜く。

 私の差料は二口とも2尺1~2寸なので、居合の「術」の鍛錬にはいささか物足りず、もっと長い刀の方が適しており、2尺3寸5分と2尺4寸5分の稽古用の模造刀もあるのだが、心胆を練りたいときには、やはり真剣で稽古するに限る。

 おかげで、心のモヤモヤがすっきりとそぎ落とされた。

 さてそれでは、風呂に入って寝るとしよう。

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2月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義、荒木流、柳生心眼流/(武術・武道)
- 2017/02/27(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古。まだ暗い朝5時半に武州の草庵を出立し、甲州へ向かう。

 9時半に本部稽古場に到着し、午前中は小佐野先生に打太刀をとっていただいて柳剛流の稽古を行う。

 剣術、突杖、長刀の後、居合では体変換の捌き、斬りの際の拍子について手直しをしていただいた。



 昼休みには、お楽しみの伝書講義。

 今回は柳剛流今井派の切紙、目録、免許、さらに岡田惣右衛門創始の柳剛流とは別系統と思われる、紀州名倉村(現在の橋本市)に伝えられた「柳剛流柔術」の伝書類、さらに京都に伝えられた長谷川派新海流柔術の秘伝書を拝見し、師よりご解説をいただく。(柳剛流関連の伝書の詳細については、また稿を改めて記す予定)。

1702_柳剛流柔術伝書1
▲紀州に伝えられた「柳剛流柔術」の切紙


1702_柳剛流柔術伝書2
▲同じ「柳剛流柔術」の授受規則状


1702_新海流伝書
▲長谷川派新海流柔術の秘伝書。殺活の穴所が、1か所ずつ示されている



 午後の稽古はまず荒木流抜剣から。構えや運足、間合・拍子などについて、細かく手直しをしていただいた。

 その後は、柳生心眼流。

 「表」、「中極」、「落」、「切」の素振りの後、「取返し」7ヶ条をご指導いただく。28ヶ条の素振りの土台に立って、より即応性の高い技の錬磨となる点がたいへん興味深い。

 次いで、師にお相手をいただき向い振り。心眼流特有の重ね当の激しい衝撃が、ある種、稽古の心持ちとして心地よい。その後、各種実践技法についての指導と解説をいただき、夕方5時前に本日の稽古は終了。

 今回も充実した1日であった。

 稽古後はいつもの通り、師の行きつけの酒処で小宴。すっかり酔い、千鳥足で武州への帰路に着いた。

 (了)
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武芸者の観相術/(武術・武道)
- 2017/02/22(Wed) -
 武芸の稽古は12歳から始めて今年で36年になるが、卜占の稽古は11歳からなのでそれより長く37年になる。

 武芸に剣術・柔術・長柄などといった分類があるように、卜占にも命・卜・相という分類がある。

 「命」というのは、その人の生まれた日時や場所によって規定される運命や性格の傾向であり、術としては西洋占星術や九星気学、四柱推命などがこれにあたる。

 「卜」というのは、占機に応じて神託を問うものであり、タロットやルーン、周易などに代表される。

 「相」というのは、その人の体に表れた兆候で運命や性格を読み取るもので、手相や人相がその代表だ。



 私は卜占においては、もっぱら周易やタロットなどの「卜」をメインとし、補助的に九星気学や占星術などの「命」を用いており、人相や手相といった「相」の類の占術は、あまり行わない。

 一方で武芸者としては、相手の「相」を知るというのは兵法=平法として非常に重要なことであり、特に人相を観て相手の性行や気質をある程度慮るという技術は、決して損になることではない。あるいは、己の人相や気色を相手に気取られないようにコントロールすることも重要な兵法である。

 そんなこともあって、卜占としては自分の本義ではないけれど、人相=観相術についても、かれこれ数十年、自分なりに学習を続けている。

 もっとも、人相観の名人というのは専門的にいうと「気色」や「画相」を観るわけだが、私ごときは到底、それらが観られるレベルではないので、せいぜい基本的な栄養質、筋骨質、心性質といった分類を土台に五官を観るのが関の山だ。

 五官とは眉、目、鼻、口、耳の5つの部位のことであるが、個人的にはなかでも目と口、この2つに注目することが多い。

 特に目は、その人の心性や性行、隠している感情や潜在意識が如実に表れる。

 口も同様だが、特にその人の対外的な性行や気質をここから観て取ることができる。

 それにしても、武芸では「一目二足三肚四力」というが、目というのは本当にその人の心根が出るものだ。

 では、それらがどのように目に出るのかというのは観相術の技術的な話であり、ここで逐一解説するのはたいへんなことになるので、興味がある人はまっとうな人相観の先生につくなり専門書籍で学ぶことをオススメするけれども、少なくとも武芸を本気で稽古してきた人であれば、ある程度は観相術的に相手の目=気質や性行を観ることはできるだろう。

 強気、弱気、おもねり、嘘、こびへつらい、虚勢、見下し、卑下、寝首を掻こうといった所々の感情や性格は、形稽古にせよ組手や撃剣のような自由攻防にせよ、人間を相手にした攻防をそれなりに経験してきた人であれば、多少なりとも観てとれるはずだ。

 このような帰納的な観相は、卜占としての演繹的な観相=人相観とほとんど一致するといって過言ではない。

 誤解を恐れずに言えば、卑怯な人は卑怯そうな目をしているものであり、嘘つきは嘘をつきそうな目を、いじめっ子はいじめる目を、いじめられっ子はいじめられる目をしているというのが、卜占としての観相術の基本的な見立て方である。

 そういう意味で、私は卜占の徒としては、冒頭に記したように「卜」と「命」がメインなので「相」はあまり観ないのだけれど、観相術的にあからさまに人相の悪い人というのはさすがにある程度分かるので、そういう人とはなるべくお近づきにならないように気を付けているし、やむを得ず接しなければならないときには、できるだけ速やかに疎遠になるように心がけている。

 そして、このような選択や行動が間違っていたことは、数えで48年となる自分の生涯を振り返ってみてもほとんどない。



 一方で、人相に代表される「相」というのは不変ではなく、本人の気の持ちようや志しによって変化するものでもある。

 生まれた日時や場所は変えることはできないし、問いに対して示された神託を三才の下に位置する人間ごときがどうこうすることは憚られる。

 しかし人相や手相については、本人の努力次第で変えることができるものなのである。

 人相が変わると運勢や性行・気質が変わり、性行・気質や運勢が変わると人相や手相が変わるという相関関係は、経験的な確信としてある。

 たとえば、もっとも簡単な観相術的開運法は、ニッコリと笑うことだ。

 「な~んだ、そんなことか」と多くの人が言うのだが、これは観相学的真理である。

 あるいは、これはちょっと話が脱線するこれども、もっとも簡単な狐憑きや悪魔祓いの方法は、憑依された人の部屋のカーテンを開き、窓を開け、日光と爽やかな風をその人の部屋にとり入れることだ。

 その上で、ベルガモットやネロリなどのアロマでも焚けば、下等な憑き物などはかなりの頻度で解消されると、とある高名なケイオス魔術の達人がその昔語っていたが、私もそのように思う。



 自分で言うのもなんだが、胡散臭げな卜占の疑似科学的論考を弄するまでもなく(苦笑)、「目は口ほどにものを言う」というのは身体論的事実であり、卜占の徒はもとより武芸をたしなむ人も、多少はこうした観相の術を知っておいて損はないであろう。

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 (了)
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再び黒帯をしめる/(武術・武道)
- 2017/02/16(Thu) -
 昨日は空手の稽古。

 新たな気分で、2時間たっぷりと汗をかく。

 何が「新たな気分」だったのかというと、久方ぶりに黒帯をしめて稽古に参加したのである。


 私が今通っているのは、県連が主催する空手教室で、生徒は子どもたちと中高年の初心者が中心となっている。

 そもそもは、転居によって流派の本部に通えなくなり、そのほかにも思う所があって、その流派を退会したのが6年前。

 それでも空手道の稽古は継続したいと思っていたところ、自宅から自転車で10分の場所にある県立武道館に、この空手教室があるのを見つけて参加し始めたのが5年前だ。

 その際、初心者向けの教室であるし、私自身、この時は約2年ほど空手の稽古から遠ざかっていたので、気持ちも初心者に戻ろうと、稽古には白帯を締めて参加した。

 ところが、この教室は県連主催のため、いろいろな流派の先生方が指導に当たっており、その中に私が所属していた会のA先生もいらっしゃり、稽古参加初日から、「瀬沼さん、なに白帯しめてんの?(笑)」と言われてしまった話は、たしか以前、このブログに書いた。

 その後もずっと、私はこの教室には白帯で参加していたのだが、先日、この教室の一般の部生え抜きの生徒であるAさんとBさんが初段に合格し、晴れて黒帯をしめて稽古をするようになった。

 すると、指導に当たられているベテランのB先生が、

 「白帯の人が黒帯をしめるのは、みっともないだけだからいいけど、黒帯の人が白帯をしめて稽古をするのは、ちょっとズルいよなあ(苦笑)」と、私の顔を見ながら笑う。

 たしかに、この教室に入ったときには2年間の稽古のブランクがあったが、それから5年間この教室で稽古を続け、私の錆びついた空手の業前も、多少は錆びが落ちてなめらかになってきたかと思ってはいた。

 そんなこんなで、元の流派の師範であるA先生のご了解をいただき、先日の稽古から気持ちも新たに、改めて黒帯をしめて稽古に参加するようになったというわけだ。

1412_空手型試合
▲12年前、弐段をとったばかりの頃。形試合で「祝嶺のバッサイ」の形を打つ。若い・・・・・・。


 帯ひとつのこととはいえ、やはり黒帯をしめて稽古場に立つと、意識が一段と引き締まる。

 ま、有段者といっても全日本クラスの「ピン」から無名の「キリ」までいるわけで、もちろん私はキリの部類なわけだが、それでもキリはキリなりに、有段者としてあまりみっともないことはできないなということで、白帯での稽古とは違った「気」が入るというものだ。

 たかが帯、されど帯・・・・・・。

 (了)
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神道無念流立居合と荒木流抜剣/(武術・武道)
- 2017/02/14(Tue) -
 昨晩は、県立武道館で稽古。

 月曜の夜ということもあってか、自分以外誰もいない武道場で、存分に剣を振るう。

 今回は、神道無念流立居合と、荒木流抜剣の稽古に専念する。

 節電のため半分照明を落とした薄暗い武道場で、たった一人、鏡に向かって刀を抜いていると、まるで自分自身と剣を交えているような、奇妙な感覚になる。

 延々と刀の抜き差しを繰り返していると、これは目の錯覚なのだが、ときに鏡に映った自分の動きが、実際の動きよりも一拍子遅れて動くように感じられることがあるのが面白い。


 神道無念流立居合では刃筋と手之内に留意しつつ、荒木流抜剣では姫路支部長のN師範がブログで指摘されていた「無拍子」と「無色」を心にとめながら、剣を抜く。

 最初は半刻ほどで稽古を終えようと思っていたのだが、結局、閉館時間までおよそ一刻の稽古となった。

1702_荒木流 千鳥
▲先月の水月塾本部稽古にて、荒木流抜剣「千鳥」を抜く


 柳剛流はもちろんだが、神道無念流や荒木流、柳生心眼流や甲陽水月流についても、国際水月塾武術協会本部にて小佐野淳先生から直接ご指導をいただいている、私の武術人生の宝として、これからも大切に稽古をしていきたいと思う。

 (了)
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