打突部位を明確に意識すること/(武術・武道)
- 2017/06/15(Thu) -
 今日から7月上旬まで、地獄の原稿ラッシュが続くので、昨晩は早めに寝ようと晩酌をして23時前に就寝したものの、こういうときに限って悪夢&持病の逆流性食道炎のコンボで目覚めてしまい、その後なんとなく寝付けず、こんな時間(深夜3時)にブログをつらつらと書いている。

 たしか映画『エミリー・ローズ』では、「深夜3時は悪魔が活動する時間」というセリフがあったような・・・・・・。

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 昨夜は空手の稽古。

 かなり湿度の高い武道場で、その場基本~移動基本まで1時間コッテリと絞られ、その後、松村ローハイの形稽古を中心にさらに30分と、久しぶりに「ちょっと身体がキツイなあ・・・」と感じる稽古であった。

 こういうフィジカルなキツさというのは、普段の古流の稽古ではそれほどないので(柳剛流の居合は別だが・・・)、空手の稽古で定期的に、みっちり心身を絞られるのも、武人のたしなみとして大切かなと思う。

 稽古中は、昨日のブログで柳剛流の殺法の記事をまとめたこともあり、急所を意識した打突を心掛ける。

 中段突きであれば「水月」や「心中」、上段突きであれば「虎一点」や「面山」、中段蹴りであれば「心中」や「明星」など、打突部位を明確に意識してその場基本や移動基本、形や組手を行うというのは、空手道に限らず当身のある武芸の稽古における基本中の基本だと思うのだが、周囲の有級者や低段者を見渡すと、どうもそういった意識が薄いように思われる。

 特に、これは私の通っている稽古場だけではなく、最近の伝統派空手道の稽古者全般に当てはまるように思うのだが、中段突きがかなり上段寄りになっているのが気になる。

 柳剛流の殺の部位に当てはめれば、本来、中段突きは上記の通り「水月」や「心中」を打突すべきものが、「骨当」(胸骨中心部)から「玉連」(喉ぼとけの下)辺りを突いている人が少なくない。

 当然ながら、「骨当」も「玉連」も殺の部位であるから、それらを意図して突いているのであればかまわないのだが、無意識のうちに、というか漫然と中段突きが上段寄りになっているように思えてならない。

 もっとも現在の全空連の定義では、「中段とは腹部・胸部・背部・脇腹」という部位の指定になっているので、中段突きの部位は「心中」~「水月~「骨当」の範囲内であれば、どこでも可ということになるわけだ。

 それにしても「玉連」では、中段突きとしては打突部位が高すぎると思うのだが、有段者クラスでも、この辺りを中段突きとして突いている者が時折見られる。

 いずれにしても、急所を意識しない漫然とした打突/当身は、武道としての空手道としては、いかがなものだろうか?

 空手道の稽古場では、私は師範や指導員ではなく単なるいち有段者なので、ことさら意見や指摘ははばかっているけれど、古流武術師範という立場から言わせてもらえば、改善した方がよいと強く感じている。



 などという駄文をつらつらと書いている暇があったら、とっとと眠るべきであろう。明日・・・いや既に今日からは、原稿地獄なのだ。

 とりあえず次は、悪夢ではなく良い夢が見たいものである。

 では、チャントを唱えてあと3時間ほど眠るとしよう。

 Eko, Eko, Azarak, Eko, Eko, Zomelak,Eko, Eko, Cernunnos, Eko, Eko, Aradia!

 (了)
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武具の購入/(武術・武道)
- 2017/06/04(Sun) -
 柳剛流の稽古では、専用の長大な木太刀を使う。

 このため入門して間もない者や、あまり稽古に来られない者には、私が所持している木太刀を貸し出している。

 そしてある程度稽古が進み、本人の希望がある場合に、木太刀の購入をすすめている。

 これについてある武友から、「入門した段階で最初に購入させた方が良いのではないか?」とのご意見をいただいた。

 彼によれば、決して安くないはない武具を入門時に購入することは、本人の稽古参加へのモチベーションにつながり、結果として稽古が長続きするのだという。

 たしかに私も、そういう面はあるだろうなと思う。

 しかし流儀の武具というのは、柳剛流の木太刀にしても、翠月庵の手裏剣にしても、すべてオーダーメイドの品なので、けして安価なものではない。

 木太刀と手裏剣をまとめて一気に揃えようとすると、数万円の出費となるわけで、それは入門をしようという本人にとっても、また指導をする私からしても、その人が果たして3か月で辞めてしまうのか、これから20年精進するのか分からないわけで、当人にとって経済的な負担が大きくてかわいそうだなと思うのである。

 一方で柳剛流の木太刀にしても、手裏剣にしても、私が所有しているものは数が限られているので、武具を持っていない初学者や見学者がたまたま同じ日に稽古が集中してしまうと、武具の数が足りなくなってしまうのは、困った問題だ。



 モチベーションへの影響と物理的な数の問題も含め、少なくとも柳剛流の木太刀については、入門と同時に即購入してもらう方が良いのかなあとも、最近は考えている。

 自分が初学者の立場であれば、自らが学びたいと望む流儀の専用武具は、一刻も早く手に入れたいと思うのだけれど、ま、考え方や懐具合というのは人それぞれだから、一概に自分を基準に考えてはいけないと自戒している。

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▲柳剛流剣術、目録柳剛刀「無心剣」。稽古では4尺を超える木太刀を用いる


 (了)
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雲静かにして日月正し/(武術・武道)
- 2017/06/01(Thu) -
 「雲静日月正」(くもしずかにしてじつげつただし)。

 (雲は静かに流れ、太陽や月の運行も正しいゆえ、季節は移ろい、人は平穏に過ごせる)。



 今日から6月である。

 なんの気も無しに暦を見ていたら、今年は旧暦で閏月があることに気づいた。

 それにしても、まだ旧5月7日だというのに、ここ数日は、雨が降るような、降らないようなはんぱな陽気で、我が草庵のある武州・埼玉はなんとも蒸し暑い・・・・・・。

 また、すっかり見落としていたのだが、本ブログのアクセス数が、累計(ユニークアクセス)で10万回を超えた。

 あまたある有名・人気ブログのPV数に比べればささやかなものであるが、こんな私的な記事を、日々30人ほどの方々が読んでくださるというのは、ありがたいことだとしみじみ思う。



 この春は、4月の「苗木城さくらまつり武術演武会」、5月には「水月塾主催第32回諏訪明神社奉納演武会」「松代藩文武学校武道会 第22回春の武術武芸会」と、演武会への出場が続いた。

 諏訪明神社奉納演武会で柳剛流を披露するのは2回目であったが、苗木城の演武では打太刀として、松代藩文武学校の演武では仕太刀として、いずれにおいても初めての柳剛流の披露となった。

 また、諏訪明神社や松代藩文武学校の演武では、柳剛流200有余年の歴史上、初めて免許秘伝の長刀を公開するということで、準備段階から演武当日まで、やはりそれなりに緊張感のある時間であった。

 加えてこの間、父親の死去や母の一周忌などもあり、なかなか演武に臨むに向けて「明鏡止水」「無念無想」といった心の境地には及ばず、精神的にも経済的にも、負荷の少なくない日々であったなというのが実感である。

 結果として、それぞれの場での演武では、自分なりに仕太刀また打太刀として、柳剛流のいち修行人としてあるいは指導をする者として、いずれにおいても手ごたえと次の課題を感じることができたという点で、厳しくも充実した、私の36年間に渡る武術・武道人生において特筆できる2カ月間となった。



 次の演武は10月に再び松代ということで、向こう4カ月ほどは、武芸に関しては粛々と稽古に励む、静かな日々となろう。

 考えてみると、この数カ月間は柳剛流の稽古に集中し、手裏剣はほとんど打っていない。

 柳剛流の更なる精進はいうまでもないが、手裏剣術の腕前についた錆を、少し気を入れて落とさねばなるまい(苦笑)。

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▲柳剛流剣術「右剣」 打太刀/小佐野淳師 仕太刀/瀬沼健司 平成29年5月28日 松代藩文武学校にて


 ~無念とて無しと思うな唯ひとつ
               心の中に無しと知るべし(柳剛流 免許武道歌)~


 (了)
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兵法のはやきといふ所、実の道にあらず/(武術・武道)
- 2017/05/21(Sun) -
 40代の半ば頃までは、居合や抜刀において、わりあい速く抜くことにこだわって稽古をしてきた。

 試し物を抜き打ちで斬る稽古などでも、いかに早く斬るのかについて、いろいろと工夫と鍛錬をしたものである。

 しかしここ最近は再び、稽古では穏やかに、そして丁寧に抜くことを心掛けている。

 それは、いまさらながらお恥ずかしい話であるが、武芸において、速い・遅いというのは、あくまでも相対する彼我の拍子の関係性において生じる現象であり、「柄に手をかけてから切先が鯉口を離れるまでコンマ何秒」などといった、表象的なものではないのだなということに、四十路半ばにして改めて思い至ったからである。

 こうした道理は、手裏剣術においても同様だ。

 かつて、私は打剣の速度をスピードガンで計測したり、剣が飛ぶ速度の向上に心掛けた時期もあったが、結局のところ、手裏剣術を武芸=彼我の攻防と定義すれば、速さはあくまでも相対的なものであり、剣が飛ぶ速度が時速80キロだろうが、35キロだろうが、自由な意思を持って我を攻撃しようと動き回る相手に、手裏剣が刺さればそれでよいのである。



 日本武芸におけるもっとも平易かつ深遠な、普遍的戦闘マニュアルである『五輪書』には、次のような一文がある。

「兵法のはやきといふ所、実(まこと)の道にあらず。はやきといふ所は、物毎に拍子の間にあはざるによって、はやきおそきといふ心也。其道上手になりては、はやく見へざる物也」(『五輪書』風之巻)



 こういうことを400年も前に、誰にでも理解できる分かりやすい言葉でさらりと言語化しているところに、宮本武蔵という武芸者の空前絶後な偉大さがあるといえよう。

 

 柳剛流の居合では、1本目の「向一文字」がすべての基本形となるわけだが、ここでもごぼう抜きは禁物である。

 スラスラと、序破急の拍子を十分に意識しての抜刀に心掛けねばならぬ。

 ただしそれは、剣先に蠅が止まるような気の抜けたものになってはならない。

 あくまでも、序破急の拍子と位がそこにあるからこそ、「ゆっくりに見えるが、実は速い」という業になるのだ。

 居合の稽古では、常にこうした理合を念頭に置きたいものだ。

170521_柳剛流
▲柳剛流居合「右行」


 (了)
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礼法も、また楽し/(武術・武道)
- 2017/05/12(Fri) -
 時折、一般の人や現代武道をやっている人から、「古武道は、作法や礼法がやかましかったり、面倒そうでねえ・・・」という話しを聴くことがある。

 たしかに古流の武芸には、それぞれに独特の作法・礼法があり、様々な所作や立ち居振る舞いが定められている。

 しかし、それを「つまらない」、「面倒くさい」、「敷居が高い」と敬遠するのは、いささかもったいない。

 私が稽古している武芸でも仙台藩角田伝柳剛流をはじめ、八戸藩伝神道無念流、荒木流抜剣、柳生心眼流、甲陽水月流には、全てに異なる礼法が伝えられており、実技はもとよりそれぞれの礼法も習得しなければならない。

 たとえば柳剛流の礼法では、形を行ずる際に必ず袴の股立ちをとることが定式化されている。

 あるいは神道無念流では、帯刀する際に我が差料の鎺や鯉口を検分する所作が、刀礼に盛り込まれていたりもする。

 こうした各流派特有の礼法や所作、立ち居振る舞いには、それぞれの流祖や先人たちが込めた、武芸としての意味や社会的な意義があり、我々の知的好奇心を多いに刺激する。

 さらにそれを一歩進めて、礼法や作法、立ち居振る舞いを、武人としての行動学や処世の術へと昇華できれば最高であろう。


 礼法や所作を、単なる形式ではなく古人が伝えた活きた行動学として捉え、それを学ぶことで往時の社会や文化に想いを馳せる・・・・・・。

 それは古流を学ぶ者だけが知る、密かな楽しみであり喜びだ。

1705_柳剛流居合における礼法
▲柳剛流居合における刀礼

 (了)
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