DVという「病い」/(時評)
- 2015/09/11(Fri) -
 過日、DV(ドメスティック・バイオレンス)防止法施行から15年ということで、仕事で専門家に話しを聞いた。

 DVの相談件数は年々増加傾向にあるというが、そもそものところで家庭内等での日常的な暴力がDVと認知されたのはここ10数年のことであり、潜在的な実態が、防止法の施行と社会の認知によって顕在化した結果が、こうした増加傾向にあるのではないかという。

 妻から夫へのDVというものも稀にはあるが、基本的にDVの大多数が、夫から妻への身体的・精神的暴力である。

 その際、多くのDV夫が口をそろえて言うのが、

 「殴ったのは良くないかもしれないが、自分を怒らせる妻も悪い」

 という弁明だという・・・。

 客観的に考えれば、これはまったく言い訳になっていないことは一目瞭然だ。


 「殴ったのは良くないかも知れないが、自分を怒らせる妻も悪い」

 「蹴りを入れたのは良くないかもしれないが、自分を怒らせる妻も悪い」

 「半殺しにしたのは良くないかもしれないが、自分を怒らせる妻も悪い」

 「包丁を突きつけたのは良くないかもしれないが、自分を怒らせる妻も悪い」

 「殺したのは良くないかもしれないが、自分を怒らせる妻も悪い」


 とまあ、こんな理屈以前の理屈が認められたら、世の中なんでもありになってしまうであろうことは、錦糸町のキャバクラのお姐さんたちでも分かる、社会の道理というものだ。

 「人を殴ってはいけません」というのは、社会の倫理として最も基本的な了解事項であり、幼稚園児くらいのときにはすでに理解しているべきことなのだが、DV男(ま、女でもいいけど)は、「自分だけは、それが許される」と勘違いしているところに、病根の深さがある。

 また、多くのDV夫は、「夫の方が妻より偉い」「妻は夫を最優先にすべきだ」という価値観が強く、自分と同じ価値観を妻も持つべきだと、強く信じている傾向にあるという。

 「他者も、自分と同じ価値観を持つべき」という同質性の強要は、人種差別主義者や排外主義者にもよく見られるものだ。

 さらに、多くのDV夫は、「家庭の問題であるから、口を出すな」との言い逃れをよくするという。

 しかし、DV防止法の施行によって、

「(DV防止法では)配偶者等からの暴力を「暴力」と認め、かつ、それが「犯罪となる行為をも含む重大な人権侵害」だと規定し、暴力や人権侵害の根絶を図るために、保護命令制度の規定、婦人相談所(千葉県では女性サポートセンターになります。)や婦人相談員の位置付け、関係機関相互の連携協力の義務付けなど、被害者支援のための仕組みを規定」(千葉県ホームページより)

 することにより、DVは単なる家庭内の問題ではなく、社会の問題として扱われるようになっているのである。


 一方で、武術・武道という人間の暴力を扱う専門の立場から考えると、DV傾向のある人間というのは、何かに対する恐れが過剰なのであるまいか。

 一見、最も身近な人間ながら、本質的には他人である妻に、無条件で自分のすべてを受け入れてほしいという、ある種の幼児性が成人後も解消されないというのは、本人のアイデンティティに何か大きな不全があるのかもしれない。

 さらに「武徳」や「修身」という観点から考えると、DV男というのは、己よりも圧倒的に立場や力の弱い相手である女性に対して暴力をふるうことで、己の承認欲求を満たそうとし、あまつさえそれを身勝手な理屈で正当化するという、いわば、

 人間のクズ

 なのだから、そのふるった暴力に見合った刑罰を受けるなり、心療内科や精神科の治療を受けるなりして、本人の家族はもちろん、地域社会全体にも迷惑をかけないようにしていただきたいものである。


 「子どもは成長に伴って抑制力を身につけ、一つの行動を持続できるようになります。強い心とはよけいな刺激に惑わされないこと、優しい心とは自分の行動を抑えて他人を受け入れることです。心を育むとは抑制力をつけることと言えますが、一方で、抑制を上手に解くことにより、創造的な行動が生まれます」信州大学繊維学部助教・森山徹

 (了)
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まさかこんな時代が来るとはねえ・・・/(時評)
- 2015/06/28(Sun) -

日本国憲法第21条第1項
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。



 まったく、自分が生きている間に、こんな時代が来るとは思わなかったのは、場末のロートルとは言え取材記者としての自分の先見性の無さを恥じる。

 議会制民主主義に基づいて、国民の負託を得た政府や政権与党が、これほどあからさまに言論弾圧をする時代が到来するとは、いやまったく驚きである。


 1990年代後半から2000年代の初めにかけて、私は中東の民族紛争を自分の取材テーマとして、彼の地で何度か金にならない自腹での取材活動をしたり、38度線を越えて北朝鮮で取材したりもした。

 たとえば当時のシリアは、先代のアサド大統領が健在の時代だったが、言論の自由などまったくなく、とにかく行く先行く先で秘密警察の監視が厳しく、取材どころか世間話をするにも緊張感が必要だった。

 あるいは北朝鮮では、基本的に外国人記者が滞在する宿泊施設には、すべてに盗聴器が仕掛けられているので、自室内で外国人記者同士といえども、自由に会話をすることもはばかられたし、当然ながら一般市民の自由な言葉など、聞くことさえできなかった。それどころか、国境を越える前に通訳から「絶対に金正日と呼び捨てで呼ばないでください。自分の部屋の中ででも、独り言ででも絶対にだめです。必ず、金正日将軍と呼んでください!」と、本気で忠告された。

 イラク北部のクルドゲリラの解放区への潜入を試みた際には、トルコの秘密警察に国境でたいへん紳士的に軟禁され、丁寧にトルコ領内に連れ戻されたことがあった。その際、ジュントルネスな警官氏に、「なんでオレのこと知ってんの?」と聞いたところ、「ずっと監視してたんだよ。あんた、イスタンブールで反政府系の新聞社にいただろう」と、私の取材活動はすべて監視されていたのだった。

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▲中東をうろうろしていたころのパスポート。いまはどうか知らないが、当時は独裁国家ほど、ビザのスタンプがでかかった・・・



 とまあ言論の自由がない国というのは、ことほどさように陰鬱で暗い社会であり、それは必ず権力による監視社会につながるんだが・・・。


●大西英男衆院議員(東京16区、当選2回)

 「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番。政治家には言えないことで、安倍晋三首相も言えないことだが、不買運動じゃないが、日本を過つ企業に広告料を支払うなんてとんでもないと、経団連などに働きかけしてほしい」

●井上貴博衆院議員(福岡1区、当選2回)

 「福岡の青年会議所理事長の時、マスコミをたたいたことがある。日本全体でやらなきゃいけないことだが、スポンサーにならないことが一番(マスコミは)こたえることが分かった」

●長尾敬衆院議員(比例近畿ブロック、当選2回)

 「沖縄の特殊なメディア構造をつくったのは戦後保守の堕落だ。先生なら沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていくために、どのようなアクションを起こすか。左翼勢力に完全に乗っ取られている」

●百田尚樹氏

 「本当に沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。沖縄県人がどう目を覚ますか。あってはいけないことだが、沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」
 



 とりあえず、この議員たちに投票した人や、この作家の本を買った人たちというのは、言論の自由や表現の自由をどう考えとるんだろうね。

 これら若手議員の発言だけでなく、政府自民党は先の選挙前に報道各社に「通達」という形式で圧力をかけるなど、とにかく言論統制や弾圧があまりにもあからさまだ。

 また、これは地方のニュースなので関東圏でない人はあまり知らないと思うけれど、埼玉県さいたま市の公民館・教育委員会が、護憲派のデモをテーマにした俳句の公民館だよりへの掲載を拒否して裁判となっている。

 往々にして行政の人間というのは、時の政府与党や地元の権力者の動きに敏感なので、頼まれてもいないのに政治家の意向を「忖度(そんたく)」したがるものなのである。

 ゆえに、このさいたま市の公民館・教育委員会のように、簡単に言論統制を始めてしまうのだ。

 埼玉といえば、明治政府の圧制に叛旗を翻し自由自治元年を謳った「秩父事件」で、その名を歴史にとどめている場所にもかかわらず、この体たらくである。

 草葉の陰で井上伝蔵が泣いていると思うのは、私だけではあるまい。


 護憲にせよ改憲にせよ、集団的自衛権に賛成にせよ反対にせよ、それらの議論とそれに基づいた政策決定、民主主義の根幹を担保しているのが、言論の自由であることを忘れてはならない。

 あんまりこういう政治向きの話題は、ここでは書きたくないのだが、あまりにも最近、言論統制や言論弾圧があからさまなので、場末の記者として思わず書き連ねた次第。

 (了)
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「ヘイト」という女中根性/(時評)
- 2015/02/13(Fri) -
 最近ネットなどで目に付く不快な風潮に、たとえば何かの事件やトラブルがあったりすると、その相手を何の根拠もなく特定の在日外国人扱いするというものがある。

 こんな情けないヨタ話を真に受ける人間が、そんなにいるとは思わないが、そもそも自分にとって都合の悪いことや気に食わないことは、すべて外国人や自国に暮らすマイノリティのせいにするというのは、なんともさもしい「女中根性」である。


「女中根性というのは、自分の実力を全力発揮するチャンスのなかなか得られない、お屋敷奉公(これは嫁入り修業の行儀見習を兼ねていた)の町人の娘が、互いに隠れて朋輩のけなし合いにうつつをぬかすような態度をいい、表面は「お堅い」のですが、精神が非独立的で非生産的なのです。移動の自由が少ない社会では、男にもこういうのがいるでしょう」
(兵頭二十八/日本勇気倍増計画HP(http://www.gotoyoshinori.com/028hyodo/post_67.html)『9)勇気と度胸/為永春水/勇気は景気次第(前編)』より)



 人種差別というのは安直なものだ。

 たとえば「自分は日本人である」という事実は、日本人に生まれれば誰でも日本人であることができる。

 そこには、努力も精進も必要がない。

 そういう安直なところに、己の優越感・存在意義を置くというのは、実に情けないことだ。

 一方でだからこそ、今の世の中に不満のある、しかし自分で自分の運命を切り開くガッツのないヘタレたちが、こぞってヘイトに走るのであろう。
 
 自分の人生に真剣に取り組んでいれば、ヘイトで憂さ晴らしをするような下らない時間はないはずだ。

 ネットで「在日認定」とか書いて下卑た笑いをしている暇があったら、素振り1000回でもしとけってなもんだ。いやほんと、本気(マジ)で。


~世の中に不満があるなら自分を変えろ。 それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ~(『攻殻機動隊』より)

 (了)
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「惻隠の情」を知らない人々/(時評)
- 2015/02/01(Sun) -
 早朝から残念なニュースを聞き、重たい気分である。

 さらには一連の出来事にともない、webなどで被害者やその家族を批判するような言説を目にし、暗澹たる気分になる。


 ひとつ思うのは近年、何か事件が起きると、自らは安穏なところに居ながら、さも正論のように「自己責任」を声高に叫ぶ、一部日本人の醜悪さだ。

 日本人には古来から、たとえ考え方やものの感じ方、行動が異なっていたとしても、そうした相手、特に弱い立場にいる相手を慮って対応する、「惻隠の情」というものがある。

 ゆえに日本の伝統的な情理を理解すれば、ヘイトスピーチやら人種差別やらは、おのずからできなくなるものである。

 ところが近年、右派や保守を「自称」する人々ほど、こうした日本人の伝統的な精神=大和心(やまとごころ)をわきまえず、事が起きれば鬼の首をとったように、無力な弱者を排撃する者が少なくない。

 無力な弱者を害するような行為は、日本人の伝統的な精神ではない。

 そういった卑しい、破廉恥で、自然の情理に反するような行為は、古くから唐心(からごころ)というのである。

 「ネトウヨ」という言葉に象徴される、こうした自称保守といわれるような人々特有の、恥や情けを知らない言動を目や耳にすると、彼らは日本人本来の大和心というものを、まったく理解していない「異人」なのだなと強く感じる。

 理由はどうあれ、無害な弱者を害するような行為(たとえば、海外で人質になっている邦人やその家族の立場を害するような発言をWEB上で得意になって公開する、元独裁者の何番夫人だかの下品なタレントなど)は、日本の伝統的な大和心から見れば、到底ありえない破廉恥な人間なのだ。

 ま、あのおばさんは、日本人じゃないからしょうねえか・・・。

 閑話休題。

 最近の風潮として、日本の伝統的な精神についてまじめに学びもせず、浅はかに「保守」や「右派」を自称する人々ほど、実は日本の伝統的な情理を理解しない唐心に犯された人々であり、本当の日本的伝統や日本的情理、そして日本的美を破壊するのは彼らなのだと、私は強く危惧する。


 草葉の陰で、かつて本物の保守・右派であり、厳しくも常に弱者への優しさを忘れなかった、川内康範先生が泣いているのではなかろうか・・・。

 (了)
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日本の治安は悪化している?/(時評)
- 2013/10/10(Thu) -
 ここ数日、若い女性がストーカーに殺害された事件が大きく報道されている。

 その事件だけでなく、ここしばらくの間だけでも、バラバラ殺人や虐待死などのニュースが多く、「なんだか殺伐とした世の中になって、治安も悪いなあ・・・」と感じる。

 さてそこで、ひねくれ者の貧乏記者としては、

 「本当に、日本の治安は悪くなっているのだろうか?」

 と考えて、ちょっと調べてみた。



 厚生労働省発表の人口動態統計によれば、2012年に他殺で死んだ人は合計で383人。1年間、毎日1人以上の人が、日本のどこかで他人に殺されていることになる。やはり、ぶっそうだ・・・・。

 ところが、この年間の他殺者数383人というのは、戦後最小の数なのである。

 戦後、最もたくさんの人が、他人に殺された年は、前の東京都知事が小説『太陽の季節』で直木賞をとった、1955(昭和30)年。この年の他殺による死者数は2,119人で、2012年の約6倍(!)となっている。

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▲図版出典:社会実情データ図録(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/)


 ちなみに、多くの人に「昭和の昔はよかった。素朴で人に優しい時代だった・・・」と郷愁を感じさせてヒットした、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台設定は、1958(昭和33)年。この年の他殺による死亡者数は、年間で1,968人となっている。

 つまり、われわれの郷愁を誘う「三丁目の夕日」の時代は、現在の5倍もの人が殺人事件などで殺されていた、治安最悪の時代だったのである。


 他殺者数(殺人・傷害致死など)だけでなく、強盗や強姦などの凶悪犯罪、あるいは少年の引き起こす凶悪犯罪などについても、戦後から現在にかけて全体的に減少傾向にあり、昭和時代に比べると、

 現在の日本の治安は、きわめて良好

 なのが現実だ。


 一方で、内閣府が2006(平成18)年に行った「治安に関する世論調査」では、次のような調査結果が示されている。


 ここ10年間で日本の治安はよくなったと思うか,それとも悪くなったと思うか?


 「よくなったと思う」11.3%
 「悪くなったと思う」84.3%


 つまり、全体の8割以上の人が、実際には治安がよくなっているにもかかわらず、「治安が悪くなった」と感じているのだ。

 こうした、主観的・感覚的な治安情勢を、「体感治安」という。それにしても、実際の「治安」と「体感治安」がこれほどずれているのは、いったいなぜなのだろうか?

 簡潔にいえば、社会の情報化によって、事件がセンセーショナルに、そして繰り返し報道されることで、われわれは昭和時代の人よりも、はるかに凶悪事件の「ニュース」を数多く読み、あるいは聞かせられているからであろう。

 昭和30年代の日本であれば、たとえば秋田県北秋田市阿仁中村(いわゆるマタギの里)で起こった、痴情のもつれによる刺殺事件のニュースを、鹿児島県西之表市西之表(鉄砲伝来で有名な種子島)の人が目や耳にすることは、ごくわずかであっただろう。

 しかし情報化された現代では、どんな地方の小さな事件でも、マスコミがそこに「ニュースする価値」を感じれば、各社がこぞって大量にニュースを作り、それをネットやテレビ、ラジオ、新聞、週刊誌などなどで流し続けるのである。

 平成のわれわれは、昭和時代に生きた人々に比べ、好むと好まざるとにかかわらず、はるかに膨大な量の「ニュース」=「情報」にさらされている。

 ゆえに、実際の殺人や凶悪犯罪は、昭和時代に比べて激減しているにもかかわらず、「体感としての治安の悪化」を極めて身近に感じさせられているのだろう。



 肝心なのは、事実を客観的に捉え、事象の本質を見抜くことだ。

 当世風に言えば、それは「メディア・リテラシー」であり、武芸の世界の言葉で言えば「観の目」を鍛えるということになろう。

 (了)
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